パンをつくらない、パン屋の息子の物語 パンをつくらない、パン屋の息子の物語 パンをつくらない、パン屋の息子の物語

パンをつくらない、パン屋の息子の物語

今回から、キラリ!と個性が輝く、とちぎの働く現場をレポートするシリーズを始めます。第1回は、「パンの缶詰」で世界的に有名になった、「株式会社パン・アキモト」さんを訪ねました。

株式会社パン・アキモトは、昭和22年に栃木県黒磯市(現在の那須塩原市)で創業し、学校給食への供給や地元スーパー内への出店など、地域に根付いたパン店として親しまれていました。そんな折、阪神大震災が発生。被災地にパンを送るも、被災者の方にすぐには届かず、食べていただく前に痛んでしまい、多くのパンが破棄されるという結果になってしまったそうです。「美味しいパンを食べてもらいたい」。その一心から、パンをフワフワの状態のまま賞味期限最長37ヶ月間、長期保存できるパンの缶詰の開発に成功します。現在では各市区町村の災害時に備えた備蓄として、また、NASAの宇宙食にも採用され、パンの缶詰とそこに込められた社長の想いは、多くのメディアでも取り上げられています。今回は、社長の息子さんである秋元信彦さん(取締役営業本部営業部長なんでも係)に、地元の、父親の会社で働く思いや人生設計の考え方、そして、パン・アキモトの企業文化にもつながるお話をうかがってきました。

東京と、アメリカと…地元を飛び出して

実は、私がパン・アキモトで働くのは、2度目なんです。もともと「地元に残るのは嫌だ、絶対に東京に出る!」と都会への憧れが強いタイプで、高校を卒業した後は、東京の旅行関係の専門学校のエアポート科に進みました。飛行機関係を学ぼうと思ったのは、祖父の影響です。祖父は飛行機乗りで、戦前戦中と世界を飛び回っていたのですが、ある時祖父の乗った飛行機が落ちてしまったんですね。祖父は落ちたときは無事だったんですが、他の乗組員を助けるために、炎上している飛行機に飛び込んでしまってですね。そのあとは全身火傷で1年間生死をさまよっていたと聞いています。障がい者になってしまった祖父は、もう飛行機には乗れず、栃木に戻ってきました。生計をどうやって立てようかと考え、戦後の暮らしでは食文化が大切だと、パン屋を始めることになったわけです。

私の就活では、飛行機関係の会社を何社か受けまして、その中で1社内定をいただいていたのですが、父の強い勧めがあって、語学留学でアメリカに行く事にしたんです。向こうでは、いろんな国の友人もでき、英語が楽しくなってきたと思っていた頃に、9.11が起きたんです。住む街は離れていたので危険は感じなかったのですが、それを機に日本に帰ることにしました。それでまあ、仕事もなかったので、実家のパン屋で働き始めたわけです。新しいパンの宅配事業を担当して、苦労しながらもなんとか軌道に乗せていたんですが…、今考えると、若かったというか、社長は父親でもありますから、ことあるごとに、社長に対して反発を感じて反抗するようになってしまったんです。すると業績も下がり始め、やる気も下がり…。「やっぱり都内に行きたい」と思い始めたら止まらず、地元を出てしまいました。今考えると、本当に考え方が若い(甘い)ですよね(笑)。

東京での会社員時代…たった一文字の間違いが一人の人生を大きく変える

それから入社したのが、H.I.S.です。今では旅行会社として有名ですが、私が入社した当時は栃木県内ではそこまでひろく知られておらず、私自身「ここに入りたい!」ではなく、たまたま新聞で募集がかけられていて。それで会社説明会に参加したんです。そしたらなんといきなり一次面接が始まりまして。筆記試験と面接を受けました。筆記はわかるところだけなんとか書いて、多分落ちただろうなーという感じでした。面接では志望動機を聞かれ、よくある答えの「旅行が好きだからです」って。それで社名の由来(社長の名前をとって「ヒデオ・インター・ナショナル・サービス」)だけ知っていたので「将来的には自分の名前をとってN.I.S(ノブヒコ・インター・ナショナル・サービス)にします」って言ったんです。バカですよね。ダメだなと思っていましたが、驚くことに一次面接も通り、二次面接を終え、入社が決まりました。H.I.S.には6年間ほど在籍していましたが、二部上場から一部上場になるタイミングだったので、追いつけ追い越せの世界で、すごく盛り上がっていまして、仕事の大変さとそれを乗り越える強さや達成感を学ばせてもらいました。そんな中でも1つだけ、絶対に忘れられない失敗があるんです。私はその頃、飛行機やツアーの手配を担当していたのですが、ある時、入籍だけ済ませて式や新婚旅行はこれから、というカップルがお見えになりました。希望はグアムで、両親だけ同行して向こうで式も挙げたいというご希望でした。

まだ自分は24歳ぐらいだったので「あー、いいなー」と思いながら対応していたんです。手配を済ませたあと、当日になって新婦側のお母さんから連絡が入ったんです。「飛行機に乗れないんですが」って。不思議に思って理由を聞いてみると、名前のMとNの表記を間違えてしまっていたんです。通常であれば、搭乗手続きの係りに説明をすればだいたい乗れてしまうものなのですが、繁忙期ということがあったり、格安航空券であったりということが重なって、お母さんの搭乗は認められず、翌日の便であらためて出国することになり、グアムでの挙式前の食事会に、お母さんだけが参加することはできませんでした。

たったMとNの違いで。もう謝っても謝り切れないですよね。その後は、日本にお戻りになってから、何度もご自宅に足を運ばせてもらって何度も謝っているうちに、いくらか怒りは収まってきましたけど、一生に一度のセレモニーに参加させられなかった、とずーっと私は頭から離れませんでした。それからお会いすることもなくなって1年が経った頃、私はH.I.Sの丸の内支店勤務だったんですが、そこに、そのお母さんと娘さんが突然いらしてくださって…。何事かと思うじゃないですか。すると「イタリア旅行に行くつもりなのですが、秋元さんに手配をお願いしたいんです」と。「ええ!?」となりますよね。あんなことしてしまいましたし、どんなに謝っても謝り切れないと思っていたので。結果的にはお母さんが「たしかにあの件はありましたが、そのあと誠意をもって対応してくれたから、今度旅行するときには秋元さんにお願いしようと思っていたんです」と。ただただ救われましたね。3秒で終わる確認を怠った事で、人の人生を狂わせてしまうんだと、お客様に大変な思いをさせてしまった後に、学ばせてもらいました。だから今の仕事では、書類の1つ1つの表記にしっかりと時間をかけてチェックするようにしています。お客様のことを考えると、もうあんなミスはしたくないですから。

栃木に戻ることを決意して…社長の息子だってトイレ清掃から始まる

H.I.S.に入社して6年目、結婚をして子どもが生まれることになり、これからどうするか?考えるようになりました。そういうタイミングで、当時のパン・アキモトの上司からある連絡が来たんです。「今のこの大変な時期に戻ってきて汗水垂らして、苦労する経験をしておかないと、あとから人はついてこなくなるぞ」と。子育てを考えたときに田舎がいいなと思ってもいましたし、栃木に戻ることを決意しました。

H.I.S.でも時間も体力も目一杯使って働いていましたが、こっちのほうはもうブラック企業並でしたね。朝3時から製造に入って、帰るのが夜10時くらい。家に帰ってからもレポートをして。睡眠時間も3時間くらい。それが3か月間毎日続いて、休みなんてゼロでした。社長の息子って、親の会社に入ると突然取締役だったり部長だったりになって、っていうのがあるじゃないですか。弊社の場合は、社長の息子だろうが研修生からのスタートです。最初の2年間は毎日トイレ掃除が日課でした。素手でタワシを使ってやりました。ある有名な創業者の方がやってらっしゃるんですが、これには、忍耐力を付けたり、感受性を良くしたり、次の人を想う気持ちを養ったり、といろいろな学びがあるんですよね。ずっと一人だけで掃除していたのですが、入社後3年目位にやっと社員が「手伝いましょうか?」って言ってくれて、そこからみんなでやるようになりました。ほかにも製造現場に入って卵割りなどの仕込みをやったり、掃除をしたり、店舗の店番をしたり。唯一、パン生地だけは触らせてもらえませんでした。職人のこだわりに強いものがあって、結局最後まで触ることができませんでした。仕事で難しいと感じることの1つが売り上げを作ることです。H.I.S.のときはあの社名があったので、信用・信頼で仕事も取ってくることができましたけど、当時パン・アキモトはまだまだ知られていなかったですし、思うようにはいきませんよね。私にいたっては、取引先の企業様からすると「東京で遊んでいた社長の息子が帰ってきたぞー」っていう感じでしたし。社長の息子だし一応挨拶するか、という方も中にはいらっしゃいます。ただ、ビジネスパートナーとしてやっていくためには、しっかり勉強をして、経験を積んでいかないといけないです。どこの会社もそうでしょうけど、周りが持つ企業イメージとして創業者の存在というのは中々抜けないものだと思います。弊社もメディアに出ることも増えて、よく言われるようになりました。「お宅の社長すごいよね」って。あまりそれをプレッシャーに感じることはありませんが、社長と同じことはできないなと思っています。簡単に言うと、社長は職人です。パンを作る仕事から始めていますから。また、世界で初めてパンの缶詰を開発した開発者です。一方で私は営業で役目を果たすしかないと思っています。売るスキルは、パンを作るのとは全く違いますから。この商品に対する想いは社長には勝てないかもしれませんけど、一番近くで見ているので、社長の想いやその商品の良さを一番感じやすいんですよね。私はそこで感じたものを活かして、営業で結果を出していこうと思います。

震災で多くを学び…地域で支えられる企業の使命とは?

実はうちのパンの缶詰は、阪神淡路大震災の時に誕生のキッカケがありました。現社長と教会の牧師先生達がパンを載せたトラックをリレーして被災地にパンを届けてきたのですが、被災者のみなさんにスムーズに支給されず、一部商品がダメになってしまいました。また、現地で被災された方より「乾パンの様に日持ちがして、菓子パンの様に柔らかくて美味しいパンは出来ないの?」という宿題を頂きました。

それで、災害時に食べられる日持ちするパンを作らなければ、と想い、研究に研究を重ね、やっとのことで3年という長期保存可能なパンの缶詰が生まれました。東日本大震災のときは、私も一緒に現地に行きました。震災当初から昨年末くらいまではほぼ毎月行っていました。最初は、休日に社員や知人・関係会社のスタッフの方々に集まってもらい、バスで現地入りしました。本当にみんなボランティアです。現地に入ることで「自分たちに何かできることはないか」と考えてほしかったんです。今でも一緒に行ってくれるスタッフはいます。震災で失ったものは本当にたくさんあります。現地に入って、被災した方々から実際にお話を聞く中で、耳を塞ぎたくなるようなことだって、数えきれないほどありました。たくさんのものを失ったことで、改めて私たちは大切なものに気づくことができた気がします。

震災のおかげで命のことや「そもそも企業の使命とはなんなのか」と考える中で、また新たな挑戦が生まれました。

その後、社長の考えの中に「道の駅構想」ができ、それは最近よく見かけるマルシェの開催です。食品を扱う会社として原点に戻って、安全安心をしっかり謳っていこうと。そもそも安全安心ってなんだというところで考えて、体に良い食品にこだわって、このマルシェを企画しています。手間暇かけたこんにゃくや蜂の餌にまでこだわったハチミツ、無添加無農薬無化学肥料のお米などなど、地元にあるこだわりの食品を扱うお店や生産者の方々を一堂に会したマルシェになります。そういうこだわりを持っている商品はとっても良いんですが、良い商品を作ることに時間をかけている分、売るノウハウを持っておらず、苦手な方が多いんですよね。それで、消費者に知ってもらうお手伝いができないかなということで今回企画しました。いずれは週一回のペースで開催できればと考えているので、みなさんもぜひお越しください。

インタビュー・執筆
土橋優平|宇都宮大学農学部OB/NPO法人キーデザイン代表理事

秋元さんは、失敗談も嬉しい話も、ずっと淡々とお話をされる様子が印象的でした。一つ一つの経験と正面から向き合い、何かしらの答えを持って、人生を歩んできているように感じました。淡々としている中にも、うちに秘める熱さを持ち、人の気持ちを汲み取ることを大切にし、他者に感謝することを常日頃から忘れないその姿勢は見習いたいです。会社の取組がこれだけ世界で認められてきているのは、スタッフ一人一人の想いや姿勢が素晴らしいからだと思います。帰りに店舗でクリームパンを買いましたが、ふわふわで、クリームの甘さもちょうどよく、お世辞抜きで、人生で一番おいしいクリームパンを食べられて、帰り道が幸せでした。

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